教区ニュース88号(1991年11月)より 抜粋
1876年より下壱分方を訪問していたテストヴィド神父は一里ばかり手前の八王子にも福音を伝えようと、その足を止めた。 彼は下壱分方の人々に対するように、熱心に宣教を試みたが、当初は大した成功を収めることはできなかった。
しかし横浜で信者となった塚本五郎氏の一家が、郷里の八王子に住むようになると、彼らは自分たちの家を、テストヴィド神父に提供したので、神父は彼の家を宿泊所
とし、たびたび八王子を訪れるようになった。塚本氏の影響もあって、信者は次第に増えていった。 このように、1877年、教会の母体は元八王子村にて創立された。
1884年、八日町に一軒の家を借りて伝道士が住むようになると宣教活動は本格化し、大きな成果があがった。
1889年、礼拝堂が三崎町に完成した。
1892年、八王子は神奈川県から東京府へ組み入れられ、人口も次第に増加し町としても大きく発展していった。
八王子の宣教に情熱を燃やしたテストヴィド神父の活躍はめざましい。その活動は埼玉県全域、神奈川、そして西は浜松にまでおよんでいる。
過労のため病気になったテストヴィド神父が、1890年八王子を去ると、レゼー神父、ヴィグルー神父、カディヤック神父らが自分の受持ち地域とともに下壱分方、八王子をも巡回し、信者の世話をした。
彼は1896年に本町に600坪の土地を購入し、聖堂建築を開始した。
同年10月、盛大な献堂式が行われた。しかしこの聖堂は、わずか半年後の1897年4月22日、八王子の大火で焼失してしまった。廃墟の中に至急立てられた小さな平屋が、お聖堂、伝道館、司祭館として使用されることになった。
それから十数年後の1913年、ようやく待望の聖堂が完成し、レイ大司教司式による荘厳ミサで祝別された。 しかし、第2次世界大戦の際、空襲により全焼した。
1936年、八王子地区での44年の宣教活動を終え、邦人司祭に司牧をゆだねたメイラン神父は清瀬に引退した。神父の感化によって司祭への召命は多く、現在も各地でその活躍がみられる。
その後、1950年に現聖堂の祝別式が行われた。司祭館兼信徒会館の建物は、1992年に建てられた。八王子小教区区域の中から、立川教会、原町田教会、青梅教会、五日市教会、豊田教会が次々と独立し、今日活発な宣教活動が続けられているが、宣教師たちが広い地域に惜しみなく蒔いた種が、今豊かに実っていると言えるだろう。
1892年11月、メイラン神父が主任として赴任した。その年の1月に全村を灰塵と化した大火から、まだ立ち上がることができなかった下壱分方に本拠地を置くことが出来なかったので、彼は八王子に司祭館を置き、拠点とした。
|